■■ 日本陶彫会の歩み ■■
縄文式の土偶、弥生式の埴輪の伝統を持つ日本の焼物彫刻は、奈良時代の磚の仏像を最後に途絶えてしまった。中国では秦の始皇帝陵に見られたあの素晴らしい兵馬俑も、陶や磁の器物に主眼が置かれるようになった。そしてその陶磁器は見事な開花を遂げ、戦国時代の日本や、ルネサンス以後のヨーロッパで珍重されるようになった。

大正時代、農商務省給費生としてフランス国立セーヴル陶磁器研究所に学んだ沼田勇次(一雅)は、陶磁器で焼き上げられた芸術的な人体や動物を見た。そう云えば18世紀の終わり頃、ヨーロッパでは古代ギリシアのタナグラ人形(※)の復活があったのだ。有田や九谷の影響で発達したセーヴル焼が、こんな素敵な彫刻を作っているのに、日本では福助や招き猫・・・。帰朝した沼田一雅は人々を説き、昭和14年に日本陶磁器彫刻家協会の第1回展覧会が発足した。残念ながらこの会は、迫り来る時局の切迫に、昭和16年の第3回展を以って中止となる。その年の暮には太平洋戦争が勃発した。

総てを失った敗戦後、5年を経て陶磁器彫刻協会の機運が再燃した。評論家の高木紀重の意見などもあって、戦前のどちらかと言えば陶芸家中心の会でなく、彫刻家を主体とした仮称「日本陶彫会」であるべきだと言う理念に、沼田も同意。会長沼田一雅を中心に、50名近くの作家が集まった。例えば本郷新、大内青圃、加藤顕清、唐杉涛光、中村直人、長沼孝三、村田勝四郎、古賀忠雄、雨宮治朗、安藤士、木内克、木下繁、森豊一、菅原安男、円鍔勝二、大須賀力、分部順治・・・。今の彫刻家達が、見て驚くような顔ぶれだった。殊に戦時中フランスより引き上げて来て、たて続けにテラコッタの秀作を発表した木内克の作品に人々の注目は集まった。ブロンズはない、鉄もない、今のような樹脂もない。粘土を素焼きするだけの塑像でも、こんな見事な作品が出来るんだ・・・。

しかし集まった多くの彫刻家は、現在のように電気カ窯はもちろん、ガスや灯油窯も持てない時代だった。あるのは古材の薪ばかり。在京の彫刻家達は、作品を江古田の唐杉濤光窯に持ち込んで焼いて貰うしかなかった。幸い近くに住む会員滝川美一(毘堂)も敷地内に窯を築くことができ、ここを拠点として熱心な研究会が持たれることになった。

昭和26年、上野松坂屋の特設会場で「日本陶彫会第一回展」は華々しくスタートした。絵画の展覧会はもう各団体が復活していたが、陶彫だけの会。しかも日展、院展、ニ科、ニ紀、新制作波などの各派の派閥を超えた作家たちの集まりだけに、注目は集まった。その後、日本橋三越、銀座松坂屋、池袋西武などからの会場の提供を受けた。

初代沼田一雅の後も、沢田政広、古賀忠雄、植木力と会長が代わり、副会長も矢崎虎夫、森豊一と歴代努力されてきたが、30回展あたりから情勢が変って来た。ブロンズが出回り、樹脂の作品も多くなると、焼き物の彫刻は割れるからとの理由で、デパート等からは閉め出され、作家も自分の所属する団体の展覧会に大作を出品するから、陶彫は自然趣味の域に留まる。会の再興に努力してきた植木会長が身体を壊されてから、福会長の佐藤義重が会長代理として会を支えてきたが、昨年86才をもって亡くなられた。

焼いた土の彫刻の暖かさ、又は高温にした時の土の肌の変化、金属に負けぬその光沢の味わい、更にはそこに釉を掛けた面白さ、そんなものを追及する人達、またはそれらを学びたい人達の集団の集団でありたい。

(日本陶彫会・岩田 健)


※ タナグラ人形:
古代ボイオティーアにタナグラという都市があった(現在でも存在する)。1860年代後半に農夫が古代の墓をいくつか発掘してこの人形を発見したのが最初といわれている。そして、その都市にちなんでタナグラ人形と名付けられた。特に1874年には紀元前4〜3世紀のものが多数見つかっている。また、紀元前3世紀から1世紀の墓の内外で小さな人形が多数見つかっている。このようなことから、他の場所で見つかったものも含めてタナグラが初期の主な製造元であったと考えられる。その後アレキサンドリア、マグナ・グラエキアのターラントとシチリアのチェントウリぺなど地中海沿岸の各地でも製作されていたことが判明している。
このタナグラ人形と呼ばれる小像はテラコッタで製作され、その上に彩色されている。墓から見つかっていることから、タナグラ人形は神殿への奉納供物として、埋葬品として、家の中の置物として盛んに製作されたものと考えられる。 タナグラ人形は19世紀の中流階級の人に美術品として人気を博した(タナグラ人形は人気が高く偽物も多いといわれる)。フランスの彫刻家ジャン・レオン・ジェロームはタナグラ人形に大きな影響を受け、彫像をいくつか作っている。日本では木内克が大きな影響を受け、テラコッタで多くの作品を制作している。
写真(右)の作品は、アレキサンドリア国立博物館に展示されているものである。

(日本陶彫会・大滝 英征)

■■ 創始者・沼田一雅の足跡 ■■

日本陶彫の父であり、日本陶彫会の創始者である沼田一雅は、フランスのセーヴル陶磁器製造所で働くことを許された最初の日本人です。農商務省海外窯業練習生として、1903年(明治38年)にセーヴルへ赴いた沼田は、日本に当時なかった、彫刻の技法を応用した陶磁彫刻を多く目にすることになります。これに刺激された沼田は帰国後この分野の啓蒙につとめ、日本に陶彫芸術の種をまきました。

沼田一雅の彫刻に対する態度16か条が文献に残っており、当時の沼田の志を知ることができます。

  • ものをつくるとき、写生であっても写生でなくても精神を主にすること
  • 省略すること
  • 軽妙であること
  • 味のある作品であること
  • 技巧の妙味があること
  • 作品の皮相的形態でなく内面にあるものをつかむことが必要
  • 肉づけの部分感が全体の力に総合していること
  • 誇張の過ぎたものはいけない
  • 形、量感、均等ということに注意すること
  • 写実をこえて、ある程度の表現(想像)も必要
  • 動の一瞬を明敏な感覚でつかむこと
  • 魂を失った写生主義はいけない(形だけで死んでいるもの)
  • 表情のないものはいけない
  • どんなものにも精魂をつくさなければいけない
  • いたずらに流行を追うモダン主義は廃頽的である
  • 美観をあたえぬ作品は価値がない

(沼田一雅遺作展 : 近代陶彫の創始者より引用)