■■ 「彫刻」と「塑像」そして「陶彫」へ/彫刻と陶彫に対する作家の活動 ■■

「彫刻」と「塑像」そして「陶彫」へ

彫刻作品の制作技法は「彫刻」と「塑像」に大別される。彫刻は、石や木を鑿や鉋などで彫り刻んで形をつくる。これに対して塑像は粘土などの可塑性の材料を捏ねて、加えたり取り去ったりして形つくる。彫刻は、彫りすぎた場合は後戻りすることはほとんど不可能である。これに対して塑像の技法は全く逆である。推敲を重ね試行錯誤ができる。このようなことから、歴史的には、「彫刻」を手掛ける作家と「塑像」を手掛ける作家とは分化している傾向が強かった。そして、「陶彫」は、これらの作家の活動の一環として育ってきたように見受けられる。
日本の彫刻界に一つの変革を起こす原動力となったのはロダンである。この変革は作家 個人の内面表現の重視する姿勢であったといえよう。それを支えたのは作家個人の芸術的な自由さがあったと思われる。確かに、高村光太郎や萩原守衛は、ロダンの生き方と作品に生命観の表現、芸術家の持つ精神の自由さ、空間芸術の独自性に感銘した作家である。萩原守衛の跪いて腰の後ろで手を組み上方を仰ぎ見る裸婦の像は、若々しい生命観があふれる作品である。彼らが渡欧して実際に目にして得たことは、後に続く若手作家に多大な影響を与えた。石井鶴三、中原悌二郎等の若手作家は大きな影響を受けた人達である。石井鶴三は清潔で洗練された男性像や女性像を残している。しかも彫刻だけでなく油彩画や版画、さし絵などでも手腕を発揮した。陶彫会前会長の岩田健は石井鶴三に師事した一人である。岩田健(岩田健 彫刻集毎日新聞社)の作風にも反映されているように見受けられる。岩田健は活動範囲が広く劇団活動や子供相手の紙芝居をも開いている。その挿絵を指導したりしているのも石井鶴三の影響かもしれない。
さて、ロダンの作品が写真以外に実際的に日本で目にすることができるようになったのは1912年以降ではある。そんな中、ロダンとの直接的な指導を受けたものは藤川勇造、陶彫会創始者の沼田一雅がある(しかし、藤川や沼田がロダンの彫刻思想を積極的に伝えるという役割はなかったようである)。沼田一雅の彫刻観については沼田一雅の陶彫論をみていただきたい。
ここで、萩原守衛、高村光太郎の彫刻観を示しておこう。この観点は現在の彫刻観とは隔たりがあるかもしれないが参考になろう。また、沼田一雅の陶彫に対する10ケ条と比べてみる際にも参考となる。

萩原守衛:彫刻の本旨、すなわち中心題目は、一制作に依て一種内的な力(Inner Power)の表現されることである。生命(Life)の表現さるることである。彫刻の制作品にしてこのインナーパワーもしくはライフが表現されていなくては完全な作とはいえぬ。否、望ましい作とはいえぬ。(芸術界1908)

高村光太郎:[彫刻10カ条]

  1. 彫刻の本性は立体感にあり。しかも、彫刻の命は詩魂にあり
  2. 構想を思え、構造なきところに存在なし
  3. 姿勢は河の如く、動勢は水の流れの如く
  4. 肉合に潜む彫刻の深さ
  5. まるごとつかめ。或瞬間を捉へ、或表情を捉へ、或側面を捉ふるは彫刻の事にあらず
  6. いっさいの偶然の効果を棄てよ。タッチに惑はさるる勿れ
  7. 効果を横に並ぶるるは卑し。あれども無きが如くすべし
  8. 似せしめんと思う勿れ。構造乃至肉合を得ばおのずから肖像は成る。つうぞくてき肖似をむしろ恥よ
  9. 木を彫る秘密は絶えず小刀を研ぐにあり、切味を見せんがためにあらず、小刀を指のごとく使わんがためなり
  10. いかなるときにも自然を観察せよ。自然に彫刻充満す

ここで木彫に話を戻してみる。塑像と木彫とは技法、素材などを異にする。そのため当然のことながら、作家の意識も異なったものであった。先にも述べたように「木彫」を手掛ける作家と「塑像」を手掛ける作家とは分化している傾向が強かった。日本では歴史的に木彫が多かったこともあり、仏師、人形師などに師事してから木彫に転じた作家も多い。平櫛田中や佐藤朝山、新海竹蔵等がそうである。彼らは木彫と塑像の両方を手掛け、戦後まで活躍した。平櫛田中は大正期に日本美術院で裸婦像制作に勤しんだ経歴を持っている。作品には着衣の下にある身体の様子や動きの表現を指向していたようである。しかも、寄木造りと彩色技法により肖像彫刻を追求した。ホテルニューオオタニに残っている作品もその一つである。平櫛の長期にわたる制作活動はその後の若手作家に大きな影響を及ぼした。陶彫会現会長の佐野一義も平櫛田中に師事した一人でもある。佐野一義の制作する裸婦像は洗練され清楚である。
萩原守衛、高村光太郎などによって確立された内的写実主義と芸術的な自由表現の流れは一つのうねりとなって第2次世界大戦後まで継承されることになった。しかも、東洋と西洋の両方の技法による制作が行われるようになったのも、近代の日本彫刻の特徴であろう。陶彫会では安藤士、森豊一、古賀忠雄、円鍔勝三らがそうである。  しかし西洋との交流が深まるにつれ、旧来の彫刻とは異なった立体造形作品が生まれてもきた。非写実主義的な作品である。それは、工業製品や建材などを組み合わせて出来たオブジェと呼ばれる類の作品もその一つである。彫刻や塑像の取ってきた伝統的な技法による表現とは趣を異にする作品である。振興美術の世界といえよう。彫刻という境界線が取り払われ、建築家や工学系の技術者もその経歴を基に参入できる立体造形の世界が開けたわけである。大正期の建築家蔵田周忠は彫刻界にも大きな影響を与えたが、彼は【全造型の根本的革新の時代】をうたった。超前衛的な立体造形も、現在の彫刻観からすると当然であろう。その裏側には反権威的、脱自然主義的な姿が見え隠れもしている。 この流れは陶彫会の中にも現れ、造形彫刻(1926:旧来の美術彫刻とは一線を画す)と呼ばれた作品に準じるような作品が多くなっている。陶彫会では、工藤健、小金丸幾久、滝瀬源一、日高頼子、日原公大らの作風の中にそれが読み取れる。

蔵田周忠(大正期の建築家)、[ロダン以後](1926)
*彫塑もいつまでもミケランジェロ、ロダンに低徊しているのだろうか。少なくともそれらの巨匠のあとにより若き作家の精進があり、さらにその後により広き全造型の根本的革新の時代が来ている。
*彫塑は要するにいつも空間の処理であったことは事新しく言うまでもない事実である。この空間処理という問題に、われわれの時代の彫塑は一層接近してきた。それに従って、空間の処理を最も大規模に遂行する[建築が主要な題目になった]

陶彫については陶彫会の発足当時沼田一雅が抱いた意志も根幹に流れている。沼田は,"国立陶磁器製造所として立っている有名な所は、大体において彫刻品および彫刻を応用したものをその誇りとしている。そして器物などは第2のものである。こういう風に非常に彫刻の応用ということが盛んである"。"それで私は、どうかして彫刻を広く工芸化するということ、彫刻をいわゆる工芸のうちに、陶芸界にもっと応用されるようにと努力希望してきた"。"自分の作った彫刻が一般の人の手に入りそれによって楽しんでもらうことは極めて有意義なことであるという風に考えている"当時にあっては、彫刻を陶器で制作するということは思いもよらなかったことであろう。従って、沼田に同調した彫刻家達は彫刻と塑像の両者を手掛けることになったようである。元来、「彫刻」と「塑像」双方で本格的な活動を行う作家は少数であったようである。そこへ、突如、彫刻を工芸化(工芸は置物作品が主とみなされていた)するという発想は極めて斬新であったようである。 そのため、多くの陶芸家の参加も得たのである。笠間焼の創始者の一族久野道也、伊奈製陶の伊奈久、大樋焼きの大樋年郎、九谷焼の宮本知忠、沖縄焼きの金城国忠等。変わったところでは東大寺長老清水公照が挙げられる。清水公照は沢の鶴のデザインをしたことでも知られている。
このようなことを念頭に、当時の作家達の活動から現在の作家に至るまでの活動の軌跡をたどっていただければ幸いである。

【註】:「彫刻」と「塑像」双方で本格的な活動


これらの作家では、木彫制作あるいは石彫制作の準備段階として、塑像が役立てられている。例えば、木彫作家にあっては、転写用星取り機によって忠実に木彫に移した。その一部は木彫を原型としてブロンズ鋳造もされている。

彫刻と陶彫に対する作家の活動

陶彫会は戦後間もない1951年に発足した会である。彫刻家は軍や関連施設などの調度品を製作して戦時体制へと組み込まれていった。神話や歴史上の人物、大仏のモニュメントが建立され、彫刻家たちはこれらの仕事に動員されていった。総動員体制は美術家にも及び、徴兵されて前線へ送り込まれても行った。
戦争末期には、金属不足からほとんどのブロンズ像は軍に供出され鉄砲玉として消えていった。戦争は彫刻家たちに創作活動を中断させ、人間観や芸術家に多大な影響を与えた。

戦後、思想統制が無くなって、表現の自由が再度保障された。これに伴って、一方では国家主義、全体主義への反省からヒューマニズムへの復帰、そして人間像を作り始めた。一方では抽象などの前衛表現へと向かっていった。
そんな一人に円鍔勝三がいる。円鍔勝三は木彫の革新を主導する澤田政広に師事し、昭和16年には正統木彫家協会に参加して活躍してきた人である。日本の神話やおとぎ話、歴史上の人物などが主題とされてきた中で、近代的造形に挑戦し、そして、戦後に個性的な展開を見せた。ブロンズや石は言うまでもなく、セメント、金属など多様な素材をも利用した。木に銅板を接着してもったもの、セメントにおがくずを入れたりして制作したものなど。作家の創造力とが一致すれものであればあらゆる素材を融合させていった。従来の製作理念や造形観を解放させていった作家である。普通の人の思いつかないような独特な表現を見せているものも多い[弦田平八郎]
さて、ヒューマニズムへの復帰では戦争で命をとした青年たちや女性たちの思いを込めた作品が生まれた。本郷新のわだつみの声は代表例である。至近では岩田健の多くの作品の中にヒューマニズムの姿がうかがえる。
さて、終戦後、ブロンズ像の制作が不可能であったのを機に、副次的に粘土(テラコッタもその一つ)で独自の作風を開拓していくことも行われた。素材が粘土であるからこそ、性格描写的な人物像に代わって、造形的な人体表現も目立つ。体を大胆に屈伸させたポーズの全身像も制作されるようになった。
テラコッタで一つの境地を開いたのが木内克である。木内克は、戦後陶彫会の一時期を飾った人物である(海野美盛、朝倉文夫氏に師事.大正10年渡仏。フランス滞在中からアンドレ氏から『日本美術界の新時代を作る人』と折り紙をつけられた)。木内克はアルカイック期のギリシャ古代美術への関心を深め、テラコッタ技法に取り組んだ。写実の技法を抑え脱ロダンの意志がうかがえる。
その作品を見ると、写真に示したように小品に殊に秀逸なものが多かったように思える。テラコッタならではと思われるのは小品と考え、製作に勤しんだ向きがある。作品集を見ても椅子の上に載るような作品が多い。




木内克作品



岩田健作品

木内のテラコッタは、戦前の滞欧時代に始まり、フランスの美術学校でブールデルの指導を受けた。美術館めぐりを経てヨーロッパ美術の母ともいえる古代ギリシャ美術に行き着き「初期的で、完成されていない、技巧よりも精神が支配し、人間本位の、未開民族の芸術ではない、優秀民族(ギリシャ)の美術」を制作のより所とするに至ったとも言っている。「常にモデルを見ていても、時によって素晴らしく美しく感じる瞬間がある。その美を素早くつかんでしまわないと、すぐ逃げて永久に返って来ないことがある」という造形感覚をもっており、モデルが瞬間的に見せた美を「ひねり」で素早く捉えた。木内は、「彫刻のデッサン」とも呼ばれるこれらのひねりによる小品を生涯作り続けた。「瞬間瞬間に、充実して存在する人間の形、その中にこめられている生命感をとらえる」ことの大切さを語っている。
テラコッタ作家としては寒川典美もその一人である。寒川典美を語るには「テラコッタによる寒川典美彫刻展に寄せて」で本郷新が寄稿している。これは本郷新の絶筆となってしまったものであるが、これは寒川典美の人間性を物語るもので、この中の言葉に尽きる。その一部を紹介しておこう。
「今ではだれの目にも見えず、誰の耳にも聞こえない昔のそのまた昔の名もない民草と、もうかれこれ30年近くも会話を交わしている一人の作家がいる。それらの民草は万葉や古事記や風土記の中から3人5人と集まってきて、現代というこの怪しげな世相の中から、寒川典美という名を探し求めて互いに手をつないでいるのである。(途中略)
年1回の新制作展に作品を発表する以外、個展もグループ展も開かず現代諸相とは無縁に窯の中の火を見つめながら昔の民草と共に遊び、語り、仕上がりを待つ寒川典美である。(本郷新)
また、吉田芳男は「彼の仕事に見られる異様な鮮度と奥行きは修行者の禁欲主義にも似た自己規律の厳しさがもたらしているものと私は解く」とも語っている

現在の陶彫の流れは工藤健、小金丸幾久、滝瀬源一、日高頼子、日原公大らに負うところが大きい。【現代日本の陶彫(彫刻の森美術館1988)】の中で、述べている彼らの陶彫感を紹介しておこう。この緒言の中で、彫刻の森美術館顧問 三ツ村繁は、「テラコッタ造形が現代陶彫としての大作であってほしいというのは自明の理であります。またそのことは今度の成果が全国に潜在する芽生えの作家たちの輩出の要素をもつものと思われます。」と述べている。
そして、大型作品製作に向けて作者らは次のように吐露している。

  1. 最終的な実在としての土という暖かい素材に対する感触であり、願いである。私のテラコッタの仕事は詩で言えば、あるいは慕鳥みたいなものといえるかもしれない【伊藤傀】
  2. 焼きものつまりは焼かれて硬くなるもの、形つくられ、加工され、表面処理され、高温加熱されて定着するもの、その過程全体を含めたものを素材として用いています。どのような形にもなりうる土(粘土)、それを加工(成型、焼成)することで得られるもの(陶)このプロセス全体を素材として認識製作すること。これが私の仕事です【【井上雅之】
  3. 陶彫作品は形の追求がおろそかになる面もありますが温かみがあり破損し易いところも魅力の一つであると思います。私の場合、小品を多数作り、気にいった作品を大きくしています。その際、石膏で型どりするのが技術的に面倒な作品を塑像の粘土のまま乾燥させて着色し素焼きにしております。石膏型より寄せ形を作り素焼きにした【木内岬】
  4. 陶彫の粘土は日ごろ塑像家の使う粘土とは違い感触がざらざらしすぎ粘着性が無く、慣れるまでにずいぶんてこずった。瞑想は信楽の陶芸彫刻用粘土の直作りで埴輪の作り方をした。ひも状の粘土扱いの面白さを髪の毛の表現に用いた。【工藤健】
  5. 朱色のテラコッタに興味を持ち始めた頃、沖縄のファナリ焼きに出会う。粘性を出すためにカタツムリを混ぜ込んで練り上げた土がそれであったが、焼かれた朱色の効果は見事であった。【山崎猛】
  6. 素材は、温かさや表面尾肌の美しさなどを鑑みテラコッタを使用し、大きさを確保するために組み合わせの作りとした。その結果筋肉の緊張した張りや動きなどが素材とよく調和して生々しい重量感と統一されたムーブマンを表すことができた【日原公大】
  7. 数年前、製作の折、テラコッタという性質ゆえ、土を積み上げてゆく過程で、内側と外側に両手を当てて、その感触を頼りに内からの押し出す、ふくらみの量の強さを実感した。【日高頼子】
  8. 形をあらわにした完全無菌の穢れ無き作品を前にしてこの後の作業を心に鳥肌の立つ思いで進めていくのです。石膏を介して素材をたくすブロンズ彫刻とは少し異なる点で最後まで作家の手で作るテラコッタのよさかもしれない。【滝瀬源一】
  9. 火は土を招請すると同時に破壊もする。陶作の怖さは想像と破壊の狭間で成り立っているところにある。【池田満寿夫】

このように大型作品に向けても、それはそれなりの手法の工夫や土、火に対する思いが伝わってくる。しかし、根幹的な面で,現在の大型作品(彫刻も含めて)のあり方と現在の陶彫会作家の目指しているものとは異なるような思いがする。ちなみに、彫刻展を見ても手を後ろに組んだり、横に広げたりした立像が多く、言ってみれば静的な印象を受ける。これに対して、陶彫会の作品には動的なものを感じる。木内克の作品を取り上げ、『流動する人間像に 新しい生命感と豊かな量感を盛りあげ アルカイック様式の作風から出発し 独特な形態を完成したというのが氏の作風』(「サン写真新聞」  1951年12月19日)とある。これに呼応し、木内克はいう、『私の作品は 世の中にみせようという必要品でなく 真実を表現しようとする未完成な実験品です……』 『私の作品はすべて未完成のものばかりで 完成された作品というものはありません』と。また、鈴木政夫 (わが石彫の風土)はいう『円空の仕事が木以外の何者でもないように,彼のテラコッタ「ひねり」も間違いなく「土」そのものであるからだ.あまりに作りものの多い世の中に,一見何気ない「土くれ」 そこにこの「ひねり」を求める人たちが言い知れぬ人間の根源的エネルギーを垣間見たのであろう.』
この、一見何気ない「土くれ」、人間の根源的エネルギーを脈々と追及しているのが現在の陶彫会の作家であるように見受けられる。流動する人間像に新しい生命感と豊かな量感を盛りあげている。


戦後の作家には写実の技法を抑え、脱ロダンの意志がうかがえる。脱ロダンといえば、ロダンの愛人であったカミュもそうではなかったかと思われる。カミュの作品には、人間の根源的エネルギーに満ちている。彼女の作品を見て影響を受けた陶彫会の作家も少なくなかったであろう。そこで参考までにカミュとその作品について記しておく。
【出典:レーヌ・マリー・パルス、 カミ−ユ・クローデル みすず書房】
『また我々は、彼女の作品の大きさが常に主題と見事に一致していることに気づくことであろう。これもこの創作態度によるものであり、緊密で的確な印象を生んでいる。カミュ・クローデルは詩の題材で抒情詩を満たそうとしたことは一度も無い。おしゃべりをする女たち(別名内緒話)はその最もよい例である。この小さな群像は、何か内緒のもののように、両手の中に持つことの出来る大きさである。こうした的確さは、別の形でも現れている。肖像彫刻に見られる、彫刻家のモデルに対する完全な適応である。これらの肖像が、どの角度から見ても驚嘆すべき豊かさで変化する表情によってフランスの肖像彫刻芸術に重要な貢献をしたことはすでに指摘されているが、まさにその通りである。カミュ・クローデルの作る胸像は、3次元の構成を持っており、その奥行きは、平らなデッサンに美化のための人工的な窪みをつけて出したものではない。ところが現在の胸像の多くは、この癒しがたい欠陥に犯されており、そのため、殆どの角度から見ても死角が生まれる。カミュ・クローデルの胸像は沢山の面を持ち、それが生きた顔のように回転に伴って、現れてくるので、表現が豊かに変化するようなまれにみる印象を与える。こうした離れ業は、イタリア文芸復興期の彫刻家たちの作品に見られ失われた秘法として賞賛された。消え去った時代の、きらめきの名残がカミュ・クローデルの胸像に他に類を見ない僥倖のような効果をもたらしているのである。』
『カミュの彫刻は、ロダンの彫刻と大変異なっている。ロダンが隙間無く埋め尽くされ、光を跳ね返す魂を提示しているのに対して、彼女は花束を作るように光を捕まえ摘み取る。屋外や街路の彫刻に存在の意義が無くなったしまった今、彼女は、屋内の彫刻を作っている。それは詩的なテーマであり、家庭の心、家の中心であり、生きた魂であることであろう。彼女の陰影の芸術は、内的な光に照らされ、ステンドグラスのように透かし模様や、縁の切込みを持っており、光を向かいいれ、閉じ込める。彼女の最も類似しているのは翡翠細工である。』
『カミュ・クローデルの作品群を見るものは、それらが未完成だという印象を強く受ける。おそらくそれゆえにこれほどまでに心を打たれるのである。それらはやりかけてやめた美しい仕草、熟さないうちに摘み取られた愛情である。彼女の芸術にはこの欠如という特質が強く刻み込まれている。』
『カミュ・クローデルの芸術の最奥の鍵を一言で言えば、土に生きるものの本能に他ならなかった。それが彼女の永遠のミューズであった。カミュと話した人はよくそのしゃがれ声、田舎くさいとつとつとした話し方、荒っぽい動作、子供っぽい機知に驚いたものである。彼女は自分の原点からの声に耳を傾け、続け、彫刻が、<<触れたいという欲求、両手の中に粘土を持つことの母性的とさえいえる喜び>>から生まれたことを決して忘れなかった。』
『まず手作業の仕方は、多少の違いはさておき、非常に良く似ている。両者ともに、横顔を掘り、動きを筋肉によって表現するダイヤモンド細工師のようである。その仕上がりは、贅肉を剥ぎ取った、希薄に満ちたものである。カミュ・クローデルにおいてもロダンにおいても作品の表面は触覚の喜びそのものであり、秘められた大きな努力から生まれた隆起や窪みが反射光を放っている。肉付けは、その都度新たな動作の産物に他ならず、型どおりの技法の適用ではなく、繰り返し使われ、順番のように作られる見飽きたふくらみの貼りあわせでもない。それは内面からの働きかけによってではなく、周囲の窮屈な雰囲気に応じて得られた、ありふれた壷、単なる空洞のような彫像ではない。カミュ・クローデルの作品にも、ロダンの作品にも内容の充実した物体の持つ緊密さがある。』





(文・日本陶彫会 大滝英征)