陶彫会の発展期を担った作家達
―安立和弘氏 談話―

安立和弘氏は第25回(1978)から52回(2005)まで会員として活躍された方で、陶彫会の発展期を担って来た一人でもある。瀬戸焼をされていた家系出身で、修業を重ね瀬戸から窯を埼玉へ移築し、創業した人である。日彫会会員でもあった。
さて、1960年代から2000年代にかけては、日本の美術団体も揺籃期を迎え、様々な主義主張を持った人たちが新たな団体を作った時期でもある。日展系以外の団体も数多く登場し、美術界を沸かせた。この頃、陶彫会にどのような会員が所属されていたかは、過去の陶彫展の欄を見ていただければ幸いである。参考までに、古賀忠雄氏や円鍔勝三氏は芸術院会員として活躍もされていた人である。西村公朝氏は三十三元堂内の仏像を修復した人としても著名であり、その後出家して念仏寺を興隆された方でもある。また清水公照氏は東大寺長老として活躍され、沢の鶴のデザイン者としても知られている。このように、仏教界からも参加されていた。
久野道也、恵美子夫妻は笠間焼を始めた庄家の家系の人(13代目)であり、伊奈久氏は現在のINAXの創始者の御曹司でもある。当時、柳宗悦(1957、文化功労者。1961死去)を主体とした民芸運動(生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱えた運動)も活発であり、窯元が大いなる影響を受けた期とも重なる。その影響を受けた作家達ともいえる。
宮本知忠氏は、九谷の家系を継ぐ人であり、現在の九谷焼の釉薬開発に尽力された。 さて、安立氏と多岐に渡って雑談を重ねたが、内容は作家達の経歴の一端を垣間見るものと言えよう。内容を纏めてみると

1.陶彫会所属の陶芸家

様々な分野の作家が所属していたが、当時の会員は彫刻家が主であり陶芸家は少なかった。そのため、窯を有している会員は少なく、色々な伝手(つて)を頼って作陶していた。江古田在住の唐杉寿光氏の所で焼いてもらう人も多かった。久野夫妻の所で焼いてもらっていたのは佐藤義重氏であったと記憶しているともいう。安立氏自身も、沼田一恵氏他2,3の作家の作品を焼いたとのことであった。粘土と言えば、現在のように簡単に手に入るというのではなく、信楽から直接購入していたという(高橋粘土社)。

2.陶彫刻会の事務局

沼田一雅氏の直系は、沼田一恵さんで終わり。陶彫会も新しい道を歩むことになった。陶芸家と彫刻家の集団として、多くの分野の人が集まっていたので、互いに切磋琢磨することが出来たという。
陶彫会の会長は、当時他の芸術団体もそうであったように東京芸大系で継承されることになった。芸術院会員でもあった古賀忠雄氏、その後を受け継いだ植木力氏、佐藤義重氏、岩田健氏も芸大卒であった。
そのような会長の下で、事務局として会を支えたのは、唐杉寿光氏、滝川毘堂氏、伊藤芳雄氏等であろう。
唐杉寿光氏は昭和45年陶光会全国陶芸展(現在の全陶展)を創立主宰した人である。この会に参加した人達も、陶彫会に参加した。井野喬(現全陶展会長)、可部美智子(現同理事)氏等である。
会長が芸大系であったため、交流のある様々な分野の人が参加するようにもなった。滝川毘堂氏、滝瀬源一氏、工藤健、日高頼子夫妻氏等がそうであったと記憶している。自ずと、二紀会、創型会、日彫会の会員も参加するようになったようだ。大学関係者も会員となられた。例えば山崎猛氏は現筑波大の先生であった記憶している。

3.陶芸家と彫刻家の作品

彫刻家は粘土で習作を作成し、それを大型の作品に展開していくという工程を辿る。この習作作品を陶芸とすれば面白いという発想が根底にあったようだ。確かに、当時は、陶芸作品と言えば、床の間の置物が主であった。この置物に変わるものとして、習作を焼きあげれば、ユニークな作品が創造できあがるであろう。従って、陶彫会も彫刻家が主であったといえる。彫刻家の作品は習作の内部を繰り貫いて作品としたため、内部が未だ湿っている状態で焼成に入ったり、空気が抜けていない箇所があったり、肉厚が不均一であったりしたため、時々爆発や割れを起こしたようだ。焼成という作業に至るまでの難しさを実感したようでもある。
そのようなわけで、陶芸を経験した人物の知識を頼らざるを得ない一面もあったようである。

4.作家たちの活動

古賀先生は日展、日彫会でも活躍され、確か古賀先生は西郷隆盛をも作られた。お宅にお邪魔した時、庭で作っておられたのが印象に残っている【註:鹿児島西郷隆盛像は安藤士の父親安藤照作】。
円鍔勝三先生は、粘土のみならず様々な材料を取り入れる工夫をされていた。そのような流れにあるのが田辺靖氏の作品であるかも。
矢崎虎夫氏はヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusaイタリアの彫刻家)の弟子であったと記憶している。そのお嬢さんである有賀敬子氏も陶彫会に一風を巻き起こした人でもある。有賀敬子氏は、現在の美術団体アート未来の発起人の一人でもある。 清水公照氏、西村公朝氏は、芸大系の連中が仏像修復関係で奈良、京都に赴いている時に会員となることを誘われたのではないかという。清水氏は沢の鶴のデザインで名をなした人でもある。作品は小さなものであったが評判は高かった。ただ、東大寺改装の期でもあり殆どお会いできなかったという。西村氏は、三十三元堂仏像修復に全力を注ぎこんでいた。広隆寺弥勒菩薩像の損壊事故の責任もあって、愛宕(おたぎ)念仏寺(京都府京都市右京区の嵯峨野)の住職へ移ったと聞いている。
ユニークな作品を創作した人として、小金丸幾久氏(長崎県壱岐 小金丸幾久記念館)が印象に残っている。他にも大河内信秀氏とも色々話が弾んだという。氏の父は、大河内正敏氏(理研所長)で、東条内閣で弾道計算をした人として有名である。後、理研コンツエルン(1917年に理研の成果を工業化する政府助成のもとで設立)を創業した人でもある。
本業として陶芸活動をしていたのは、安立、高田椰子氏以外には宮本知忠氏くらいと記憶している。高田椰子氏は西新井に住んでおられ、後松伏に移窯された。他の作家の作品も焼成していたようだ。中でも、忘れられないのは宮本知忠氏(平成十四年春 勲六等単光旭日章 受章)。彫塑を芸術院会員朝倉文夫先生に就き学び 乾甌窯を創立したと聞いている。そして、九谷の種々の釉薬白寿釉や青斉聖釉、青釉を完成させた人でもある。 民芸陶器の影響を受けていた人としては、笠間の久野夫妻、伊奈製陶9番目の子息 伊奈九氏も印象に残っている。 
(笠間焼:江戸時代中期、箱田村の名主久野半右衛門道延が、近江信楽の陶工長右衛門を招聘して窯を築き陶器を焼いたのが起こりとされている。甕・摺り鉢などの日用雑器が作られた。民芸陶器は素朴な食器類、茶器類、花瓶、置物等が主であった) (常滑焼:明治20年頃から伊奈初之丞が陶管の製造を開始したのが始め。後、大倉和親(大倉陶園創業者)の支援により伊奈製陶所が創業された。初之丞長男 伊奈長三郎 常務)

5.展覧会

西武で開催したのが印象に残っている。陶彫会の流れを掴むために、岩田健氏が資料を整理したはず。その時、植木力氏も尽力されたと思う。

(2013年に安立和弘氏に聞く/文・日本陶彫会 大滝英征)