■■ 戦後混乱期の陶彫活動――安藤士氏に聞く (2013年6月) ■■

1.焼け野原からの出発

当時の学生は、学究半ばにして学徒出陣を余儀なくされた。戦線に送られ、多くの悲惨な状況を垣間見た人も多いに違いない。幸いに復員出来たものの、家族が住んでいた場所は、黒ずんだ灰に覆われた一面の焼け野原。どうやって生きて行くのか途方に暮れたに違いない。取敢えず焼け焦げた木材やトタンを集め、雨露をしのぐための掘立小屋を造り、生きる術、生きる希望を見出さなくてはならなかった。陶彫会を立ち上げた作家達も同じような状況下にあったに違いない。
安藤氏も同じ命運。復員して来た時には、家族は行方不明。新宿伊勢丹の骨組だけが遠望できるだけで、周りは全くの焼け野原。どうやって生きて行くのか、食べて行くのか途方に暮れたという。自分が生き残っていただけでも奇跡であったと。お皿に載った干からびた干し薯を食べ、お腹を満たした日々。働こう思っても働く場所が無い。傷痍軍人のように、お金を貰って歩くわけにもいかない。多くの人は焼け残った中から売れるようなものを探し出し、露天に並べて売っていたという。露天に並べるにしても、どのようにして並べたら、多く売れるか。飾るに相応しい品物、方法があってしかるべきと思っていたという。思い出のある銀座まで足を延ばした時、御木本や資生堂、一番目の付く場所の装飾がみすぼらしいことに気が付いたという。そこで、掛けあって得たのがウインドウを飾るデスプレイという仕事。“生きて来たんだから”、“美術学校で学んだのだから絶対良い仕事が出来るんだ”という心の中の叫びにも助けられて頑張った。道行く人が足をとめてくれるよう。より多くの人に喜んでもらおうと。
これが、ウインドウ デスプレイの先駆けであった(ウインドウ デスプレイ協会の創立にもなった)。
この時の彫刻作品の数々、工房の片隅にも残っている。安藤氏は振り返って言う、焼け落ちた我が家の残骸の中から、かって芸大で彫刻を目指していた時の粘土を見つけた。その時、この粘土があれば何とかなると、意を強くしたという。焼け残った木を削って、へらを作った。そのへらは気持の支えであったという。棚から取り出した一本のへらを前にして、朴訥と話された。


へらを持ちながら語られる安藤氏

2.新規な分野への挑戦

このウインドデスプレイは、自由な発想で取り組むことが出来たという。復員して来て、当初、顔を合わせたのは日展系の人達。年配で権威者も多かった。若造が参入出来る雰囲気ではなかった。新しく発足した自由美術に所属するようになった。自由な発想化下で作品造りに挑戦できたという。
自由な発想に基づいた作品は、陶彫展も出品されていた。しかし、陶彫という概念は、彫刻家達にもそれほど強く受け入れられていたとは思われないと振り返る。陶彫という作品にまで深く踏み込まなかったような記憶がある。彫刻家からの批判も多かったようだともいう。作品が焼きものになっただけではないか?。焼き物には焼き物の良さがあるのではないか?。焼き物には焼き物の表現もあるし、技法もあるはず。という批判は聞いたと。
陶彫という概念は中途半端なようだったと振り返る。テラコッタの手法だけが残ったような気がするとも言う。
当時の作品で唯一残っていたと、猫の作品を取り出してくれた。可愛い猫である。また、当時出品された作品を思い出し、スケッチを描いてくれたりもした。やはり、戦後の混乱期の中で製作した作品に対する思いが強く残っておられるような気がした。


唯一残っていた出展作品


当時の作品を思い出しスケッチを描かれる安藤氏


スケッチされた当時の作品か?

3.彫刻家としての戒め

ウインドウを飾るデスプレイは“瞬間”を追求しなくてはならない。瞬間に示す心、気持がある。彫刻家はそれを掴み、表現することが基本だ。”今だ!!“が重要である。現代工房というのはそのことを念頭にして命名したものである。今でも油粘土を掴みながら作品制作に打ち込んでいる。若い人達はパソコン上でウインドウ作品制作をしているが と笑みを浮かべておられたのは印象的であった。(若い人達の作品は、安藤先生の後を引き継いで、銀座エルメスなどのウインドウを飾っている)。
さて、安藤士氏の代表作。ハチ公。元々は父照氏が作ったもの。作成中にはハチ公(国立科学博物館の剥製は本田剥製社)も安藤宅にもよくやって来ていたという。その照氏の作品、戦中に撤収され、行方不明となってしまった。戦後、ハチ公を作ってくれという話が大学先輩である齊藤広吉氏(日本犬保存協会会長)から来た時は嬉しかったという。しかし、東京の何処かにあるのではと探し回ってみたものの、終戦直前に解体、溶融され、東海道線の列車の車軸になってしまったと聞き及んだという。 それでは、作ってやろう!。ハチ公は私の心の中にある。ハチ公が、家によく来ていた時の姿を思い出し作成したという。主人を待つ姿、それを何とか表現できたと朴訥と話された。(ハチ公については、模型製作や他の姿の製作についての話もあるが、皆断っているという)
犬といえば、もう一つの作品がある。タロー、ジローを代表とする15頭の南極犬。この製作も齊藤広吉氏から持たされた話。南極へ行った人に会って、多くのスナップ写真を片っ端から集めた。スナップ写真だから姿、形はまちまち。それを繋ぎ合わせたりして一頭一頭の姿、特徴を掴むことが出来た。帰国したのはタロー、ジローであるが、極地で生きていたのは他の犬達との結束があってのこと。仲良くやっている姿を作りたいという一心で、一頭一頭に話しかけながら作成したという。単に、南極から帰って来たというだけの理由ではでは作れない。犬達を飼っていた人達の心情を考えると尚更。
しかし、突如、東京タワー近傍の整備のため、撤収される羽目(2013年5月14日)になったと知った時には、もうこれで終わりだよと涙して別れたという。今では、何処に保管されているかも分からないという。所有権の問題もあろうが、オリンピック招致という名の下に消えた寂しさは余りあると細々と語られた。

(2013年6月に安藤士氏に聞く/文・日本陶彫会 大滝英征)