沼田一雅の作と思われる石膏原型【大倉陶園所蔵】

沼田一雅の生涯に渡っての製作活動については、福井県陶芸館での展覧会に合わせて発行された書籍に詳細に記されている。
その中で、沼田一雅が入所を許可されたセーブル陶磁器製造所では、どんなことを学んでいたか?も分かる(ヨーロッパでは陶像も多かった。日本では、木彫や鋳造が主)
彫刻家サンドーズの指導を受け(明治30年。30歳)、フランス独特の技法である
@原型型より石膏型取法
A押し型法
B仕上げ法
C窯詰め法
D焼成法
などを習得したとされる(日本では鋳金の蝋型技法が主)。そして、純日本風俗などの彫刻原型を数種類作って、記念に寄贈して来たともある。
明治39年に帰国し東京美術学校雇員となり、塑造部を担当した際には、洋式の手法を教授したようである。大正10年(48歳)に再度渡仏した折(48歳)には、焼成技術と釉薬調合を主にしたようである。成果として、鳥の王と題して”鳳凰”。獣の王と題して”唐獅子”を残している(このようなこともあってか、一雅の作には鳥が多い)。
大正11年帰国後は、引き続き東京美術学校で教鞭をとっているが、この間、あまり作品は残されていないようである。
昭和12年、京都に移り住み(64歳)京都高等工芸学校に勤務するとともに、商工省陶磁器試験場嘱託を勤め、陶工の子息ら20数人を対象に、一雅の手法を習得させたようである。
昭和16年東京から茅ヶ崎小和田に移り住み、セーブル式の窯を築いて専ら陶彫の指導に明け暮れた。しかし、戦争拡大とともに、終戦までの間は実際の窯焚きはほとんど行われなかったといわれている。この時の指導に当たっては、沼田一雅自身の原型を基にしたようではあるが、確たる証拠は残っていなかった。
今回、大倉陶園で見つかった原型はこの時代のものである可能性が高い(茅ヶ崎小和田に居を構えていたことからも、沼田一雅没後、縁のあった大倉陶園へ何らかの事由で渡ったとも考えられる)。
終戦後、昭和21年には愛知県瀬戸市に陶彫研究所を設立し、自ら所長となって”日本の文化的特色や民族の香りを伝える作品”が彫刻の再建に繋がるとし、指導したようである。愛知県陶磁研究所には作品は残っているが石膏型は残っていないようである。
さて、一雅の作品には正木直彦像があるが、これはいくつかの部品をつなぎ合わせて釉薬をかけて焼き上げたものであるが、継ぎ目が一つとしても見当たらない。このような几帳面な姿勢が商工省陶磁器試験場や陶彫研究所で指導の基本的な姿勢であったと考えられる。
(若狭メノウ商工業(株)では動物や鳥類の原型は昭和28年の水害でなくしてしまったとある)

写真に示した石膏型を見てみよう(九谷での指導に際しての記録が残っている。沼田の指導の方法は、講習のその場で、たとえば動物の顔半分を彼が作り、残りを受講者に作らせたようである)。

@ 小鳥の石膏型:
沼田一雅らしい雰囲気の小鳥である。いくつかの部品に分かれているが、それぞれについてもパーテイラインが描かれている。再度型取りする際にはこのパーテイラインに沿って注意点を喚起したものと思われる。















A チャボの石膏型:
チャボはよく製作していたようである。沼田喜代子の回顧談によると、試験場で仕事を始めたころ、先生はチャボを製作され時々私を見てくださる。土をこねること、石膏のとき型、すべて本式に手に取るように教えてくださるとある。
また、その両の手の指先から次々と獣類が鳥類が虫類が生み出されたともある。









B 熊の石膏型:2つの石膏型が残されている。実に表情をよく捉えた作品である。
宮永東山から依頼されて、錦光山宗兵衛の焼き物つくりを支援。できるだけ細いところや長いところの無い形がよかろうと、熊と人間の像を作ることとなったという記録も残っている。

【熊の石膏型1】














【熊の石膏型2】










ちなみに、大倉陶園には熊の製品(昭和9年)がある。これは、フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの助手を務めたフランソワ・ボンボンの白熊を髣髴させる作品である。白熊の歩くという動作を、右後足を一段高い位置に置き、前方へ進む姿を巧みに現している。ボンボンはこの白熊をセーブル陶磁製作所で製作する契約を結んでいる。この製品がセーブル陶磁製作所で製作された丁度そのころ、沼田一雅はセーブル陶磁製作所に在籍していた。そのようなこともあってか、ボンボンの名が大倉陶園に沼田一雅を通して伝わっていた可能性もあるという。
C トラの石膏型:
上野動物園のトラは小さかったので、浅草花屋敷のトラを写生にいった。係員が親切にしてくれて筋肉の動きを知るために、わざわざトラを怒らせるようなこともしてくれたとある。油粘土で50cmくらいのトラの全身像を作ったとある。

D 象の石膏型:
大阪千日前の見世物で、写生を繰り返した。象使いの親方が親切で、一度象に載せてくれた。そして背中の凹凸などがよく分かった。そのころは原型を石膏で作らなかったので、土の素焼きを原型にした。(沼田一雅の象の作品は、いずれも背中の形が特徴的である)













【オウム】
















【灰皿】


【金魚】










【鶏】








【鳥1】








【鳥2】








【馬】




















【羊】














◆沼田一雅の石膏型についての指導

石膏型を見るに当たっても、沼田一雅の指導法を垣間見ておくのも役立つであろう。

◆石膏について

「石膏を溶くには深い器は泡が立ち易いので、茶碗、丼などのような形の器に水を汲み、その中へ石膏を静かに落とし、水の倍くらい入れたら、上水をこぼして表面に水が無い程度にして、棒などで静かに練るようにかき回す。そのとき、棒は斜めにねかせるのがよい。よく練って、石膏がとろりとなった時に棒を伝わせて流す」
「石膏を流す時、周りを囲む土手土は丁寧にもんで、平らな板の上に必要な長さに伸ばし、親指でならし、1cm厚みにする。石膏を流す高さにあわせて切り、静かに起こして、板の上に載せ、必要な大きさに囲む。フランスには色々の大きさの鉛の帯がある」

◆型抜きについて

「型は切れるだけ細かく切る。型から外した一つ一つの部分は大小によって乾き方が違うので、蒸気の室に入れておき、翌朝それを全部つける。
彫刻の大きさは最大1mくらいで、大きいものは焼き締めです」

◆併せ型について

「日本では、併せ型の両面にへらで傷をつけ、泥奨を縫って手で押さえつけ、型を外す。併せ口の土の筋はへらでなすり、筆でなでるだけなので、どんなに丁寧にしても筋が残る。
セーブルでは合わせ型に用いる泥奨は日本より水分が少なく、糊のような固さです。型にはめるものも、隙ができると押し込んで、爪で傷がつかないほどまで、固く押し込むのです。そこに泥奨を塗って併せる」
「石膏型は日本より分が厚く、中に三重くらいの鉄のバンドで締めてあるので叩いても壊れない。それを、気槌を海綿でくるみ、その上に皮を被せた槌でたたく。合わせ目にできた筋のところは、溝に掘り取って、改めて同じ土で象嵌する」

【註】沼田一雅と大倉陶園との係り:
日野厚とは東陶会、商工省などを通じて親交があったとされている。そして、大倉和親は昭和5年に狛犬の製作を一雅に依頼したほか、昭和15年に一雅と宮永東山が合資会社宮永東山を設立した。そして、自ら顧問を務め、合資会社の活動を支えたとされている。
一雅は大倉陶園のために陶芸彫刻原型を製作、提供しており、大倉陶園の陶彫製作に影響を与えたようである。

【註】大倉和親:
明治37年日本陶器合名会社設立に伴い、初代代表となる衛生陶器や碍子などの製作にいち早く着手し、大正6年には東洋陶器株式会社、大正8年には日本碍子株式会社を設立。大正8年には大倉陶園を設立している。伊奈製陶の設立も行った。(沼田一雅は、日本陶器(株)あたりで彫刻部をおかないのはおかしい。日本一の会社だし、設備も整っているのだから是非やってほしいと述べている)。

日野厚:明治44年より愛知県立瀬戸陶器学校教諭。大正7年より大倉陶園の設立に参画し、大正9年に初代支配人に就任。
昭和元年に帝国工芸会の設立に参画、翌年には東陶会結成に携わった。多くの団体に所属し、顧問として活躍した。