■■ 沼田一雅の陶彫論 ■■

沼田一雅は昭和9年陶磁器研究所瀬戸試験場の開設1周年記念講演会で陶彫について講演を行っている。題目は[彫刻の陶磁器工芸化について]である。セーブルで得た体験を基にしての話で、日本の今後の陶芸のあり方を示唆する貴重なものである。彫刻を陶器で作成して出展[帝展4部](工芸部門)した所、工芸のほうからは彫刻即置物とみなし、第3部の方へ出展したらという意見があったようである。沼田にすれば意図に反したことでもあるから持論を述べたようである。

要約すると、"工芸は無論日常生活に最も直接に関係あるものを本意とする。ところで、彫刻を応用したもの、単に彫刻をそのまま現した置物、これらはあまり日常生活に直接関係がないように考えられる。これらはつまり彫刻を完全に観る力がないからである。それがあれば(観る力)、置物を一つ持ってきて、自分の部屋に置けばやはり日常生活に親しみのあるものとなる。"
当時の陶器の置物(七福神や狛獅子のような縁起物?)に対する苦言を呈したようにも見受けられる。そして、続けて、セーブルでの経験を元に、西洋各国の陶磁器界における彫刻品および彫刻を応用した範囲について論を進めている。これは陶彫会設立にもつながるもので、興味あるものである。

"フランスのセーブル、ドイツのマイセン、デンマークのコペンハーゲン、これらはいずれも各国が 誇りとしている窯業地である。そのなかで、国立陶磁器製造所として立っている有名な所は、大体において彫刻品および彫刻を応用したものをその誇りとしている。そして器物などは第2のものである。こういう風に非常に彫刻の応用ということが盛んである"

と手厳しい批判を加えている。当時の陶芸界にとっては、せいぜい床の間に飾る置物程度であったろうし、彫刻界にとっては、そのようなものは工芸品と見なし一線を隔していたのであろう。彫刻を陶器で制作するということは思いもよらなかったことであったろう。それが、出展の際のいざこざにも繋がったと考えられる。

続いて、九谷焼では、置物類、その他いろいろな彫刻を応用した物を制作し海外へ輸出していたが売れなくなってしまったことを揚げている。当時は、アールヌーボー全盛期であり、日本の置物主体の作品には眼が向かなくなってしまっていたものと思われる。これに対して、沼田一雅は、新規に原型を作る必要性のあることを説き、いくつかの新規原型のもと一時成果の上がったことをも述べている。

成果が一時的であったことの理由として、 "良い指導者が始終いるかまたは良い参考品があるかがもっとも必要なことである"。 "まず参考品を集めて何とかして新規なヒントを得る。いろんな種類のものが集まれば技は出来ているのであるから新規な原形が生まれるはず" と述べている。この信念のもと、セーブルへ赴いた折、とにかく彫刻に関したものだけを集め持ち帰ったことを述べている。(ローゼンタール、マイセン、ベルリンのものを第一流品とし、二流、三流...五流品まで。一週間で900点を集めたようである。これらは石川県へ寄贈されたようである。)

"僅か一週間か十日の間に900余点の品物が楽に集められるほど、陶磁器の上に彫刻の応用が盛んであるということが分かる。そのなかには子供の玩具は一つもない。大体において彫刻を器物に応用したもの、花瓶に応用したもの、そのほかの置物ばかりでした"

"それほど盛んに彫刻が応用されているのに、我が国の陶磁器界では制作上の億劫さが一因として考えられる。それにもまして、彫刻家が工芸に対して関心を持つことが少ないせいである"

"西洋では、彫刻家の工芸に対する考えは我が国とは全く異なっている。(我が国は工芸ということについては純正美術家であるということからあまり振り返らなかったようである)。自分の作った彫刻が一般の人の手に入りそれによって楽しんでもらうことは極めて有意義なことであるという風に考えている"

"それで私は、どうかして彫刻を広く工芸化するということ、彫刻をいわゆる工芸のうちに、陶芸界にもっと応用されるようにと努力希望してきた"

"彫刻家が工芸ということにもう少し力を入れなければならない"
"陶磁器界にもそれぞれに彫刻をやっている人があり、そういう人ももう少し彫刻を応用するように努力する必要がある"

このような見解の元、オリエンタルデコラチィブ研究所の設立(昭和21年、瀬戸市西古瀬戸41番地) 続く日本陶彫会設立へと繋がっていったものと考えられる。

(文責:日本陶彫会・大滝英征)